形原(かたはら)城

2017年8月14日撮影


◆別名

稲生城 ・ 海岩城

 

◆所在

蒲郡市形原町東古城

 

◆交通

 

◆歴史

平安末期の久安5年(1149年)に新羅三郎源義光の孫にあたる源師光が、三河形原を中心とする荘園の下司となった際に築いた居館が形原城の前身と言われている。

 

長享年間(1487年~1489年)になると、松平信光(松平家3代目)は四男の与副に形原を与え、形原松平家を起こし、松平家の三河支配を支えていった。

 

松平家広(形原松平4代目)は於丈の方(緒川城主水野忠政の娘・於大の方の姉)を正室に迎え、松平広忠(徳川家康の父・妻同士が姉妹なので、義理の弟)に従っていたが、水野家が織田氏に付くと、広忠に倣って妻を離縁している。

 

永禄3年(1560年)今川義元が桶狭間の戦いで敗死し、宗家の松平元康が今川氏から独立を図ると、三河の豪族の多くは今川方を離反し、松平家へ従属していった。

家広も今川方から離れ、松平宗家へ従ったが、人質として出されていた次男の松平左近は、形原城から見下ろせる稲生浜で、見せしめのため串刺しに処せられたと伝わる。

 

家広の嫡男である家忠は徳川家康に従い、酒井氏や石川氏と婚姻を結び、東三河の中で一定の地位を保ちながら、三河一向一揆討伐などに従軍。今川氏の支配する吉田城攻めでは、左近の仇である小原鎮実を破っており、今川氏真を攻略した後は、氏真を伊豆へ護送する役割を担っている。

 

天正18年(1590年)に徳川家康が関東移封の際は、これに従い、形原城は一旦廃城となったが、関ケ原の合戦の後に、居城を形原に戻し、元和4年(1618年)には1万5千石で形原藩が成立したものの、翌元和5年(1619年)に摂津高槻に移封となり、形原藩は消滅。形原城も完全に廃城となった。

 

◆現在

本丸にあたる 一曲輪には稲荷社が建てられており、周囲には二曲輪が残されているが、その他大部分は宅地化され、遺構は消滅している。

 

一曲輪の西側には大規模な曲輪があったと言われているが、南古城・北古城などの地名が当時を思わせるのみである。