年月日撮影


◆別名

 

◆所在

 

◆交通

 

◆歴史

永禄5年(1562年)に本多信俊が築いた城である。

信俊は元の名前を光俊と名乗っていたが、織田信長に使いをした際、その武勇を気に入られ『信』の字を与えられて信俊に改名したと言う、三河譜代の中でも勇猛で鳴らした人物である。

 

桶狭間の戦い以降、今川家から独立した徳川家康に対し、今川氏真は東三河を維持するため牛久保城を拠点として、徳川方の城を攻略すべく各地へ軍勢を派遣し、佐脇城八幡城がある音羽川から佐奈川の流域一帯が最前線となっていた。

 

永禄5年(1562年)激戦の末、徳川家康は八幡城を落とすと、牛久保城から野田城や長篠城など北方面へ進出する今川軍の進出を抑える役目として、武勇名高い本田信俊に一宮砦を築かせたと考えられる。

 

東三河侵攻が激しさを増した永禄6年(1563年)に、今川軍は1万5千の大軍で一宮砦を攻囲したが、この報を聞いた家康は、わずか2千の兵を率いて救援に駆けつけ、これを撃退する事に成功した。

この戦いは、後世に神君一宮砦後詰めとして、家康の武勇談の一つとして語り継がれる事になる。

 

今川軍を撃退した家康は、砦の北に建つ砥鹿神社の里宮で宿泊し、翌日には本拠地の岡崎城へと帰還したと伝わっている。

 

◆現在