◆別名
◆所在
豊川市西豊町1-59
◆交通
◆歴史
三河国司であった大江定元の孫にあたる大江定巌が豊川の地頭職であった際の城館だったと伝わるが、定元が三河国司になった年は寛和2年(986年)で、永延2年(988年)には出家し、後に中国へと渡海しているため、孫が鎌倉時代の地頭職だったとすると年代が合わない。おそらくは源頼朝の側近であった大江広元の縁者の一人が定巌だったと考えられる。
室町末期の天文年間(1532年~1555年)には光明寺が城館跡に建立されたと言われており、三河に残った大江氏の子孫は酒井氏となって徳川家に仕えている。
◆現在
光明寺の山門外側に城址碑が残るのみである。