長沢(ながさわ)城

長沢小学校の南側に立つ看板

 

2017年11月1日撮影


◆別名

 

◆所在

豊川市長沢町古城1-17

 

◆交通

 

◆歴史

十八松平家の一つ長沢松平家の居城である。

 

築城年は不明だが、一帯は室町初期より今川家の支流である関口氏の支配する地であった。
長禄2年(1458年)岩津城の松平信光(松平宗家三代目)は、岩略寺城主関口満興の弟である長沢四郎の守る長沢城を急襲して城を奪い取り、十一男の親則を配して長沢松平を名乗らせた。
その後、松平信光は岩略寺城も攻略し、親則の子孫は一帯の支配権を確固たるものとしていく。

 

永禄3年(1560年)長沢松平家の六代目にあたる松平親廣は、嫡子政忠と共に、松平元康の配下として桶狭間の戦いへ出陣するも、政忠は討死を遂げてしまう。
親廣は、政忠の息子である康忠を後継に定める一方、寡婦となった政忠の妻を酒井忠次へ嫁がせた上、松平元康の妹を康忠の正室に迎えるなどの婚姻政策を取り、松平宗家との縁を深めていった。

 

康忠は義父の酒井忠次と共に姉川の戦いや長篠の戦い、本能寺の変の際の伊賀越えなどにも同伴し、徳川十六神将の一人として功名を上げ、家康の関東移封の際には深谷1万石の大名となるが、康忠の嫡子康直は若くして病没したため、家康の七男松千代を養子に迎えるが夭折。同母兄の忠輝を迎えて長沢松平家を継がせ、川中島十二万石を経て越後高田七十五万石の大名となるものの、忠輝の改易により長沢松平家の嫡流は絶える事となった。

 

◆現在

国道1号線脇の公園と、近隣の住宅地の一角の二か所に城址碑が立つ他、寛永11年(1634年)に徳川家光が上洛する際に立てられた御殿の跡地に建設された長沢小学校の南側には、長沢城の看板が残されている。